尾張万歳の祖地味鋺と石田兀太夫屋敷跡
八大孝元天皇の皇子大彦命を始祖とする陰陽師で天文博士、
安部清明(921〜1005)の十代安部有弘の三男有佐(有助: 嘉元元年:1303没)は梶原氏の家人であったが
梶原氏没落後の文永の始(1264)梶原氏の一族で矢田村の長母寺(名古屋市東区)に弘長二年1262)に
寺持ちとなった無住国師(道焼)を頼り尾張に来て子の有政、徳若と寺領の味鋺村に住んだ。無住は有政、徳若兄弟に
陰陽道と仏の道をわかり易くした歌詞を創作して生活の糧にと与え、彼らはこれに曲を付け年始の寿に詠い村々を廻った
(法華経万歳)。正慶元年(1332)徳若没後の
万歳は味鋺村の人々が受け継ぎ「板屋十人衆」と呼ばれる万歳師が長母寺の寺領(味鋺、知多の
村)周辺を巡礼し「味鋺万歳」として知れ渡る(陰陽道は先祖からか)。
元文元年(1738)尾張藩では味鋺、知多より万歳の由緒書を提出させ、味鋺村庄屋又蔵の書き
上げによれば、由緒は皆無だが代々の陰陽師十六人が万歳に出、内三人が名古屋の武家方に出
入りをしており、その由緒については初代尾張藩主徳川義直(家康九男)が味鋺村に鷹狩の際(寛
永の頃:1624)、石田新左衛門宅で休息をされ彼の禿げ頭から「兀太夫」の名を与え毎年城内で
年頭の祝儀万歳を行う事を許され、二代新左衛門まで続くがその後断絶し、三代新左衛門の時失火
し義直拝領の巻物は焼失、新左衛門の名称は石田主膳が継ぐと記す。
(現在の加藤家)
(現在 楠味鋺三 加藤家)
現在碑の前には諏崎安部家の墓が置かれている
了隠没後隠陽道は岡野左京に受け継がれ、
三河から長福太郎が来ると護国院で朝食をし昼食
を取った(味鋺陰陽師最後の家)
教育者となった諏崎(汀)氏
(頌徳碑)
(現在 楠味鋺四 )
安部氏の末、汀了隠は屋敷に塾を造り近在の子弟の教育に努め、子の恭次郎は父了隠の塾を
受け継ぎ父以上に子弟教育に熱心であったが、明治五年(1872)の学生頒布により公立学校が
建設され了隠塾の生徒数はすでに減少しており温和で学者肌の性格も災いし徐々に経営難となり
衰退し、後に家屋敷も売り払い赤貧のうち明治三十八年(1905)世を去った。
しかし了隠と恭次郎の教育者としての評価は高くその門弟や村の人々はその恩と功績を忘れな
い為、大正二年(1913)護国院境内に恭次郎の頌徳碑を建立した。