首切地蔵と盗賊小鉄
(現在 楠味鋺三 首切地蔵)
高さ三尺程の地蔵像だが胴体の下が斜めに割れ、台座に文政(1869〜28)の
銘と五左衛門の名を刻む。一の曾五左衛門家の地蔵を信心していた女中の粗相に
腹を立てた五左衛門は寝ている女中を一刀の下に切り捨てた
翌朝眼がさめ女中が地蔵を見ると胴体が切れており地蔵は身代わり地蔵として
近在に知られるようになり、大勢の参拝者で賑わったとの話が伝わる
味鋺村は昔から庄内川の氾濫で洪水に悩まされ続け、稲置街道沿いの古い民家は
玉石垣の上に建てられ洪水に備えている事がわかる。
街道東、西方寺跡の西北に高石垣に蔵を建て薬医門を備えた
大きな屋敷が幕末から明治にかけ財をなした豪農鈴木家の屋敷

安政四年(1857)破牢し、駿河まで逃亡したが捕縛されて尾張まで送られ
尾張藩刑場土器野(西春日井郡新川町)で磔になった。
刑場跡の小鉄(鉄五郎)の墓「小鉄塚」に参ると病気が治ると云う。
尾張生まれの有名な盗賊としては柿木金助(美濃生まれ説あり、疥の神様)、
浜島庄兵衛(日本駄衛門のモデル

尾張の盗賊の一人小鉄は江戸で生まれて味鋺村の鉄五郎の
養子とな子供の頃は首切地蔵の前で参拝者に線香を売っていたが
、賭場に出入り悪に手を染め、
、嘉永二年(1849)鳴海宿で御用となって、広小路の牢に入れられ・
水屋の面影
首切地蔵
護国院&味鋺神社
味鋺天神
明治十年(1877)頃一時南の西方寺(北区楠味鋺五)に移されるが
疫病や災難が多くあった事から元の位置に戻された。
西北の伊勢山味鋺八景の一つ「伊勢山松風」。


(現在 楠味鋺三.四)
水屋の面影
薬医門
鋺村は昔から庄内川の氾濫で洪水に悩まされ続け、稲置街道沿いの古い民家は
玉石垣の上に建てられ洪水に備えている事がわかる。街道東、西方寺跡の西方に
高石垣に蔵を立て薬医門を備えた大きな屋敷が、幕末から明治にかけて財をなした
豪農鈴木家の屋敷。