清正橋と味鋺小僧
味鋺の渡しから堤防を下り街道を北へ、小川(今は無い)に架かる石橋は清正橋と称し、慶長十五年
(1610)名古屋城築城の時に加藤清正が架けたと伝わるが逸話である。
花崗岩の橋脚と橋台に十五枚の花崗岩の切石を橋板にして乗せてあり、石質は志段味産(名
古屋市守山区)で古墳の石棺を加工したとも言われ、現在味鋺神社の瓢箪池に移設されている
が橋板は八枚、石材の一部は北区金城町の金城小学校(林泉寺、田幡城跡)にも移されている。
(現在 楠味鋺二)
稲置街道に戻り(水屋の面影)で紹介の四つ角東北角に味鋺の造酒屋
「大坂屋」で、明治二年(1869)長瀬伝衛門が瀬古(守山区)から水を運び
酒造りを始め味鋺の地酒「曲水宴」を造っていた。石垣の上に建てられ
、高塀、長屋門、酒蔵があり、当時の造酒屋の勢いを偲ばせる。
宝暦二年(1725)名古屋城の天守台石垣の
大修理に岩崎山(小牧市)より切り出した大石を
運搬するとき、味鋺村の木遣り歌名人の美少年
に音頭をとらせたので篠木村や近郷近在の人々
が見物に集まり「味鋺小僧」と呼び連日大変な大
賑わいとなった。
清正橋の北、街道の西側田中島にあり織田信長の老臣で安土築城(天正七年:1579)の
総奉行を努めた丹羽五郎左衛門長秀の屋敷地と伝わる。
味鋺村は初代尾張藩主徳川義直の異父兄、竹腰山城守正信が慶長十二年(1607)義直
の後見人として尾張に一万石を与えられた内の拝領地の一村で、家臣の橋詰氏に丹羽氏
の屋敷跡に屋敷を設けさせこれを居らしめた(尾張徇行記)。
正信は元和五年(1619)三万石で美濃今尾(岐阜県海津郡平田町)に陣屋を構え移り
味鋺屋敷は廃され、丹羽長秀の末と言われる庄屋利平(丹羽)の屋敷地となった。
利平家は尾張藩主の休憩所(衣装替屋敷)とされ現丹羽家には慶応三年(1867)薬医門
(御成門か?)が残る。
六代利平は味鋺の発展に尽くし藩命によって江戸に赴き砂糖黍の栽培、製造を学び尾張に
戻りその普及に努めた。丹羽氏は幕末には尾張藩士となり、明治には砂糖屋を営んだ。:
(清正橋)
(現在 楠味鋺二)
丹羽五郎左衛門屋敷跡
味鋺の造酒屋
長屋門
高 塀