白山薮古墳跡
(現在 楠味鋺五 味鋺保育園)
西方寺の東南に通称オハクサと呼ばれた物部氏の墓と伝わる
直径20m程の円墳が残されていて五世紀初頭(400年前後)
の造営と言われ、名古屋市内では最古に属し元は前方後円墳
だった可能性も指摘されている。墳丘に白山社が祭ってあった
が万治二年(1658)春日井市味美の白山古墳に遷座された。
昭和二十五年(1950)発掘調査が行われた。鉄剣、鉄鉾、
鉄鏃、管玉、勾玉、ガラス玉、三角縁神獣鏡(ヒミコの鏡として知ら
れる)等貴重な物が出土し物部氏の交流、交易の広さを知る事が出来る。
味鋺は「味鋺百塚」と称され百八十余の古墳が在ったと言わ
れ、残っていれば愛知県でベスト5に入る長さ100m〜110m
を越す味鋺大塚古墳、豊場青塚古墳(味鋺物部氏の勢力範囲)
もあった。出土品や古墳の規模等から五世紀〜六世紀にかけて
物部氏の勢力の大きさと味鋺が尾張の一大拠点であった事が
想像できる。味美二子山古墳は95mでベスト7である。
仮橋は幅が狭いので対面交通となり。信州より清酒を運ぶ人足は
待機の間に樽に穴をあけ酒を飲み、水を入れ割り箸で栓をしてごまかしたと言い、
元禄三年(1690)橋から落ちて溺死した人足もいた
味鋺の渡し
(護国院にある道標です)
味鋺村の南、庄内川(味鋺川)には橋は架けられず渡船だつたが
九月から三月までと藩主の通行時には仮橋が架けられた。橋場は雷除けのお宮として知られる西八龍社の東脇、船場はそれより東の稲置街道の西にあった。船場の堤防上に建てられていた道標は現在護国院に移設され、聖観音立像の向背に「右」勝川道「左」小牧道と刻む。味鋺の渡しは味鋺八景の一つに数えられた。
(現在
楠味鋺一 西八龍社)
(白山薮古墳跡)